「いまに在る」状態は、[待つこと」にたとえられます。
この場合の「待つこと」は、一般的な意味合いの、退屈な状態や、そわそわして落ち着かない状態とは違います。
それらは、わたしがすでに説明した、「いま」の否定です。
ここでの「待つこと」は、完全な意識の集中を要する[待つこと」です。
いつ、なにが起こるかもしれないのですから、完全に目覚め、思考が静止していなければ、大切なものを見過ごしてしまいます。
この状態では、意識は「いま」注がれています。
空想する、思い出す、予測する、といった思考活動をしていいる余裕はありません。
だからと言って、緊張しているわけでもなく、恐れているわけでもありません。
精神がとぎすまされた「いまに在る」状態です。
全身が、細胞が、あなたのすべてが、「いまに在る」のです。
この状態では、過去と未来を背負った「わたし」(あるいは個性)は、ほとんど存在しません。
しかし、その人本来の個性は、全く損なわれていないのです。
本質は、そのまま生かされています。
むしろ、よりいっそう、「ほんとうの自分」に近づいたと言ってもよいでしょう。
実を言うと、わたしたちが「ほんとうの自分」でいられるのは、「いま」しかありませ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「超シンプルなさとり方」より
明日は、[今に在る」人には、過去など存在しない・・・ということを書きます。
―仁美ー
この場合の「待つこと」は、一般的な意味合いの、退屈な状態や、そわそわして落ち着かない状態とは違います。
それらは、わたしがすでに説明した、「いま」の否定です。
ここでの「待つこと」は、完全な意識の集中を要する[待つこと」です。
いつ、なにが起こるかもしれないのですから、完全に目覚め、思考が静止していなければ、大切なものを見過ごしてしまいます。
この状態では、意識は「いま」注がれています。
空想する、思い出す、予測する、といった思考活動をしていいる余裕はありません。
だからと言って、緊張しているわけでもなく、恐れているわけでもありません。
精神がとぎすまされた「いまに在る」状態です。
全身が、細胞が、あなたのすべてが、「いまに在る」のです。
この状態では、過去と未来を背負った「わたし」(あるいは個性)は、ほとんど存在しません。
しかし、その人本来の個性は、全く損なわれていないのです。
本質は、そのまま生かされています。
むしろ、よりいっそう、「ほんとうの自分」に近づいたと言ってもよいでしょう。
実を言うと、わたしたちが「ほんとうの自分」でいられるのは、「いま」しかありませ。
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「超シンプルなさとり方」より
明日は、[今に在る」人には、過去など存在しない・・・ということを書きます。
―仁美ー
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