ペインボディが存続できる道は、ただひとつ、わたしたちが、無意識のうちにペインボディとひとつになってしまうことです。
ペインボディも、人間と同じように、生きるための「栄養」を必要としています。
栄養は、ペインボディのエネルギーと共鳴するものならば、どんな経験でもかまいません。
さらなる痛みをこしらえるものであれば、なんでも栄養にしてしまいます。
ペインボディは、栄養を摂取するために、同じ種類のエネルギーを帯びた状況を、その人の人生につくりだします。
痛みの栄養は、痛み以外にはありまあせん。
痛みは、喜びを食べて生きられないからです。
痛みは、喜びを消化することができないのです。
ペインボディひとつになると、わたしたちは、もっと痛みがほしくなります。
そこで、「被害者」か「加害者」になることを選びます。
「痛みをもたらす人」か、「痛みに苦しむ人」、もしくはその両方になってしまうのです。
「痛みをもたらす人」も、「痛みに苦しむ人」も、大差ありません。
「自分から好んで痛みをほしがる人なんて、いるもんですか!」と、みなさんは反論するかもしれません。
しかし、その気持ちをおさえて、よく観察してみましょう。
あなたの思考と言動は、自分自身やほかの人に、痛みをこしらえていませんか?
ペインボディの存在をちゃんと自覚できていれば、ネガティブ性は消えてしまいます。
痛みを望む人など、どこにもいないからです。
「エゴが映し出した暗い影」であるペインボディは、あなたの意識という光に照らされることを、なによりもおそれています。
どうか気づかれませんように、とおびえているのです。
その存在は、わたしたちが、ペインボディを「ほんとうの自分」とおもいこんでしまうかどうかに、かかっているからです。
また、自分の痛みを直視することを恐がってしまうことも、ペインボディを存続させる原因です。
ペインボディを、しっかり見据えて、意識という光で照らさなければ、永遠に痛みをくりかえすだけです。
ペインボディは、直視するに堪えない危険なものに思えますが、あなたの実存というパワーの前には、しっぽをまいて退散するしかない、幻でしかありません。
ペインボディを観察し、「ほんとうの自分」ではないと認識できたあとにも、ペインボディは活動をつづけ、わたしたちに、またわなを仕掛けることがあります。
ちょうどスイッチを止めたあとも、扇風機が惰性で少しのあいだ回りつづけるのと同じく、ペインボディも、余力で活動をつづけるのです。
この段階にくると、ペインボディは、からだのあちこちに肉体的な痛みを与えるこもしれませんが、その「悪あがき」は長くはもちません。
しっかりと意識を保って、「いま」に在りましょう。
自分の内側を、かたときも逃さず見張る「ガードマン」になるのです。
ペインボディを見張るためには、十分に「いまに在る」ことが条件です。
そうすれば、ペインボディは、思考をコントロールできません。
自分の思考がペインボディのエネルギーと同じ種類のものであるかぎり、それはペインボディとひとつになり、ペインボディに栄養をあたえることになります。
たとえば、あなたのペインボディの主なエネルギーが、「怒り」だと仮定します。
そのうえで、誰かの言動に過敏になったり、「どんな仕返しをしてやろうか」という、いかりに満ちた思考に明け暮れるとしましょう。
すると、あなたは「無意識状態」になってしまい、ペインボディが、あなたに成り代わってしまうのです。
怒りの感情の裏には、必ず痛みがかくされているものです。
みじめなムードにおそわれ、「なぜ人生は、こんなにもむごたらしいのだろうか」というネガティブな考えにひたっていると、自分自身もペインボディと同じ色にに染まり、無意識状態におちいります。
あなたは、ペインボディの攻撃に対して、もろくなってしまうのです。
ここで言う、「無意識状態」とは、「ある思考や感情とひとつになってしまうこと」を意味します。
「見張り人が不在の状態」だと表現してもよいでしょう。
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「超シンプルなさとり方」より
明日は、「苦しみ」を「意識」に変えよう・・・ということについて書きます。
ー仁美ー
ペインボディも、人間と同じように、生きるための「栄養」を必要としています。
栄養は、ペインボディのエネルギーと共鳴するものならば、どんな経験でもかまいません。
さらなる痛みをこしらえるものであれば、なんでも栄養にしてしまいます。
ペインボディは、栄養を摂取するために、同じ種類のエネルギーを帯びた状況を、その人の人生につくりだします。
痛みの栄養は、痛み以外にはありまあせん。
痛みは、喜びを食べて生きられないからです。
痛みは、喜びを消化することができないのです。
ペインボディひとつになると、わたしたちは、もっと痛みがほしくなります。
そこで、「被害者」か「加害者」になることを選びます。
「痛みをもたらす人」か、「痛みに苦しむ人」、もしくはその両方になってしまうのです。
「痛みをもたらす人」も、「痛みに苦しむ人」も、大差ありません。
「自分から好んで痛みをほしがる人なんて、いるもんですか!」と、みなさんは反論するかもしれません。
しかし、その気持ちをおさえて、よく観察してみましょう。
あなたの思考と言動は、自分自身やほかの人に、痛みをこしらえていませんか?
ペインボディの存在をちゃんと自覚できていれば、ネガティブ性は消えてしまいます。
痛みを望む人など、どこにもいないからです。
「エゴが映し出した暗い影」であるペインボディは、あなたの意識という光に照らされることを、なによりもおそれています。
どうか気づかれませんように、とおびえているのです。
その存在は、わたしたちが、ペインボディを「ほんとうの自分」とおもいこんでしまうかどうかに、かかっているからです。
また、自分の痛みを直視することを恐がってしまうことも、ペインボディを存続させる原因です。
ペインボディを、しっかり見据えて、意識という光で照らさなければ、永遠に痛みをくりかえすだけです。
ペインボディは、直視するに堪えない危険なものに思えますが、あなたの実存というパワーの前には、しっぽをまいて退散するしかない、幻でしかありません。
ペインボディを観察し、「ほんとうの自分」ではないと認識できたあとにも、ペインボディは活動をつづけ、わたしたちに、またわなを仕掛けることがあります。
ちょうどスイッチを止めたあとも、扇風機が惰性で少しのあいだ回りつづけるのと同じく、ペインボディも、余力で活動をつづけるのです。
この段階にくると、ペインボディは、からだのあちこちに肉体的な痛みを与えるこもしれませんが、その「悪あがき」は長くはもちません。
しっかりと意識を保って、「いま」に在りましょう。
自分の内側を、かたときも逃さず見張る「ガードマン」になるのです。
ペインボディを見張るためには、十分に「いまに在る」ことが条件です。
そうすれば、ペインボディは、思考をコントロールできません。
自分の思考がペインボディのエネルギーと同じ種類のものであるかぎり、それはペインボディとひとつになり、ペインボディに栄養をあたえることになります。
たとえば、あなたのペインボディの主なエネルギーが、「怒り」だと仮定します。
そのうえで、誰かの言動に過敏になったり、「どんな仕返しをしてやろうか」という、いかりに満ちた思考に明け暮れるとしましょう。
すると、あなたは「無意識状態」になってしまい、ペインボディが、あなたに成り代わってしまうのです。
怒りの感情の裏には、必ず痛みがかくされているものです。
みじめなムードにおそわれ、「なぜ人生は、こんなにもむごたらしいのだろうか」というネガティブな考えにひたっていると、自分自身もペインボディと同じ色にに染まり、無意識状態におちいります。
あなたは、ペインボディの攻撃に対して、もろくなってしまうのです。
ここで言う、「無意識状態」とは、「ある思考や感情とひとつになってしまうこと」を意味します。
「見張り人が不在の状態」だと表現してもよいでしょう。
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「超シンプルなさとり方」より
明日は、「苦しみ」を「意識」に変えよう・・・ということについて書きます。
ー仁美ー
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