「手放すこと」は「抵抗しないこと」と言いかえることもできます。
ただし、「抵抗しないこと」は、必ずしも、「なにもしないこと」を意味するわけではありません。
わたしの言う「抵抗しないこと」とは、どのような行動も、感情的な反応にならないということです。
「相手の力に抵抗してはならない。身をゆだねることで打ち勝つのだ」という、東洋の格闘技の奥儀である深遠な知恵を、胸に刻んでおきましょう。
しかし、鮮烈に「いまに在る」時には、「なにもしないこと」自体が威力を発揮し、状況や人を変化させたり、癒やしたりすることもあります。
ここでの、「なにもしないこと」は、不活発な状態ではありません。
恐れ、怠惰、優柔不断などの無意識状態とは、もちろん対極に位置します。
真の「なにもしないこと」には、「手放していること」、「無抵抗であること」、「意識がはっきりと目覚めていること」が要求されるのです。
「手放すこと」の境地に達していれば、行動をとるべき時に、思考に基づいて反応することはありません。
かわりに、「在る」意識に基づいて行動します。
「手放すこと」の境地に在る人は、非暴力主義を含め、どのような観念にも縛られていません。
その人がどんな行動に出るか、誰も予想すらできないのです。
エゴは、抵抗することが、強さの証だと信じています。
ところが真実は逆なのです。
抵抗こそが、わたしたちを、唯一のパワーの源である、「大いなる存在」から切り離してしまうのです。
抵抗は弱さであり、強さという仮面をかぶった恐れに他なりません。
エゴは「大いなる存在の」パワー、純粋さ、いつわりのない姿を、弱さとみなしています。
なんとも皮肉なことに、エゴが強さとみなしているものが、弱さなのです。
そのために、エゴは持続的に抵抗し、真のパワーである「大いなる存在」を「「弱さ」とみなして、それをおおいかくそうと、「にせの自分」を演じているのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「超シンプルなさとり方」より
明日も引き続き手放せば、人間関係がうまくいく・・・について書きます。
ー仁美ー
ただし、「抵抗しないこと」は、必ずしも、「なにもしないこと」を意味するわけではありません。
わたしの言う「抵抗しないこと」とは、どのような行動も、感情的な反応にならないということです。
「相手の力に抵抗してはならない。身をゆだねることで打ち勝つのだ」という、東洋の格闘技の奥儀である深遠な知恵を、胸に刻んでおきましょう。
しかし、鮮烈に「いまに在る」時には、「なにもしないこと」自体が威力を発揮し、状況や人を変化させたり、癒やしたりすることもあります。
ここでの、「なにもしないこと」は、不活発な状態ではありません。
恐れ、怠惰、優柔不断などの無意識状態とは、もちろん対極に位置します。
真の「なにもしないこと」には、「手放していること」、「無抵抗であること」、「意識がはっきりと目覚めていること」が要求されるのです。
「手放すこと」の境地に達していれば、行動をとるべき時に、思考に基づいて反応することはありません。
かわりに、「在る」意識に基づいて行動します。
「手放すこと」の境地に在る人は、非暴力主義を含め、どのような観念にも縛られていません。
その人がどんな行動に出るか、誰も予想すらできないのです。
エゴは、抵抗することが、強さの証だと信じています。
ところが真実は逆なのです。
抵抗こそが、わたしたちを、唯一のパワーの源である、「大いなる存在」から切り離してしまうのです。
抵抗は弱さであり、強さという仮面をかぶった恐れに他なりません。
エゴは「大いなる存在の」パワー、純粋さ、いつわりのない姿を、弱さとみなしています。
なんとも皮肉なことに、エゴが強さとみなしているものが、弱さなのです。
そのために、エゴは持続的に抵抗し、真のパワーである「大いなる存在」を「「弱さ」とみなして、それをおおいかくそうと、「にせの自分」を演じているのです。
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「超シンプルなさとり方」より
明日も引き続き手放せば、人間関係がうまくいく・・・について書きます。
ー仁美ー
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