みなさんがご存知のとおり、この世には、死を免れることのできない無数の生命形態が存在します。そして、これらのすべてを超越した、たった一つの存在があります。
この存在は、生まれることもなく、滅びることもありません。
多くの人は、これを「神」と呼んでいますが、わたし自身は、これを「大いなる存在」と呼んでいます。
しかし、そうは言っても、「大いなる存在」という表現も、「神」という表現と等しく、その本当の姿を映しているわけではありません。
ただ、この表現のほうが、柔軟性があるというメリットのため、「大いなる存在」という表現のほうを使っているだけなのです。
これならば、目で確かめることのできない無限の存在にレッテルを貼って、その存在を限定してしまうこともありませんし、特定の、イメージを連想してしまうこともないでしょう。
しかも、誰もそれをひとり占めにはできないのです。
この、「大いなる存在」こそが、「人間の本質」です。
わたしたちは、それを直接に感じることができるのです。
「わたしは、いま、ここに、こうして、存在する!」というのが、その感覚です。
「大いなる存在」というのが、その感覚です。
「大いなる存在」ということばのほんとうの意味を理解したなら、「大いなる存在」を経験する日は、もう目の前です。
「大いなる存在」は、すべての生命を超越しているだけではありません。
あらゆる生命の奥深く、目に見えず、絶対に滅びることのない本質として、宿っているのです。
つまり、「大いなる存在」は、人間のもっと深いところに「本当の自分」として存在しており、わたしたちはそれに「つながる」ことができます。
ただし、そのことについて、「頭」(脳)を使って、「考えよう」とはしないでください。
頭で理解できることには、限界があります。
あなたの「思考」がピタリととまっている時には、わたしの言葉の意味がわかるはずです。
あなたが「いまに在る」時、言いかえれば、あなたが完全に、強烈に「いま」と言う時に集中していれば、「多いなr存在」を感じることができるでしょう。
それは、人間の頭では、理解することはできません。
「大いなる存在が、自分とともに在る」という感覚を持ち続けることが、「さとり」なのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「超シンプルなさとり方」より
明日も引き続き、「大いなる存在」とはなにか?・・・について書きます。
ー仁美ー
この存在は、生まれることもなく、滅びることもありません。
多くの人は、これを「神」と呼んでいますが、わたし自身は、これを「大いなる存在」と呼んでいます。
しかし、そうは言っても、「大いなる存在」という表現も、「神」という表現と等しく、その本当の姿を映しているわけではありません。
ただ、この表現のほうが、柔軟性があるというメリットのため、「大いなる存在」という表現のほうを使っているだけなのです。
これならば、目で確かめることのできない無限の存在にレッテルを貼って、その存在を限定してしまうこともありませんし、特定の、イメージを連想してしまうこともないでしょう。
しかも、誰もそれをひとり占めにはできないのです。
この、「大いなる存在」こそが、「人間の本質」です。
わたしたちは、それを直接に感じることができるのです。
「わたしは、いま、ここに、こうして、存在する!」というのが、その感覚です。
「大いなる存在」というのが、その感覚です。
「大いなる存在」ということばのほんとうの意味を理解したなら、「大いなる存在」を経験する日は、もう目の前です。
「大いなる存在」は、すべての生命を超越しているだけではありません。
あらゆる生命の奥深く、目に見えず、絶対に滅びることのない本質として、宿っているのです。
つまり、「大いなる存在」は、人間のもっと深いところに「本当の自分」として存在しており、わたしたちはそれに「つながる」ことができます。
ただし、そのことについて、「頭」(脳)を使って、「考えよう」とはしないでください。
頭で理解できることには、限界があります。
あなたの「思考」がピタリととまっている時には、わたしの言葉の意味がわかるはずです。
あなたが「いまに在る」時、言いかえれば、あなたが完全に、強烈に「いま」と言う時に集中していれば、「多いなr存在」を感じることができるでしょう。
それは、人間の頭では、理解することはできません。
「大いなる存在が、自分とともに在る」という感覚を持ち続けることが、「さとり」なのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「超シンプルなさとり方」より
明日も引き続き、「大いなる存在」とはなにか?・・・について書きます。
ー仁美ー
0 件のコメント:
コメントを投稿