2011年9月10日土曜日

「大いなる存在」とはなにか?

「さとり」という言葉を聞くと、わたしたちは、「聖人君子のみが達することのできる超人的な心境」だとか、「自分のような凡人には縁のないものだ」といった、先入観を抱いてしまいがちです。
しかも、あなたのエゴ(自我)も、あなたがそう解釈することを望んでいます。
しかし、真実は違います。
「大いなる存在」とひとつであること、さらにこの状態を保つこと、これが「さとり」であり、本来はわたしたちにとって、自然な状態なのです。
矛盾しているように聞こえますが、「大いなる存在」は、本質的に「あなた自身」であると同時に、「あなたよりもはるかに偉大な存在」でもあります。
さとりは、あなたという人間の名前や形態を超えた、「ほんとうの自分」を見つけ出すこと、とも言えるでしょう。

「大いなる存在」との一体感を感じることができないと、自分をとりまく世界から、自分が切りはなされている、という幻想がはじまります。
「わたしは、ポツンと孤立したちっぽけなからのような存在に過ぎない」という錯覚に、おちいるのです。
すると、不安が頭をもたげるようになり、周囲との不和や心の悩みが、日常茶飯事になってしまいます。

「大いなる存在とひとつである」という感覚が得られない、一番の原因は、自分の思考を、「ほんとうに自分」だと思いこんでしまうことです。
この思いこみのために、思考はコントロールがきかなくなり、勝手気ままの活動をしているのです。自分の意志で思考活動に歯止めがかけられないのは、たいへんな苦痛です。
しかし、ほとんどの人には、この習慣が根強く染み付いてしまっているので、それがごく当たり前のことだと、わりきっています。
ひっきりなしの思考の雑音が、「大いなる存在」とひとつになって、「心の平安」の境地に到達するのを、妨げているのです。
思考の暴走による弊害は、それだけにとどまりません。
不安や苦しみをこしらえる、「にせの自分」をも、でっち上げてしまうのです。
思考を「ほんとうに自分」とみなす人は、「レッテル貼り」や「決めつけ」などの「くもりガラス」を通して、世界をながめています。
そうすると、すべてのものがゆがんで見えるため、万物に対して、真の関係を築くことができません。
わたしたちは、この「くもりガラス」を、神や仲間であるべき人間や自然に対してはもちろん、自分自身に対してさえも、使っているものです。
この「くもりガラス」こそが、「すべてのものは、はなればなれである」という、幻想を生む原因なのです。
「わたしたちはみな別々の衣をまとっている」という、見かけのレベルをこえた、「自分はすべてとひとつである」という根本的な真実を、すっかり「忘れて」しまっているのです。

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「超シンプルなさとり方」より

明日も引き続き、「大いなる存在」とはなにか?・・・について書きます。

ー仁美ー





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